世話をすること・されること について


今日は合唱団の仲の良い男子高校生団員といっしょにバーミヤンで勉強してきました。この子は3年生で受験のため今年は活動を休んでいるのだけど、なかなか賢い子で礼儀正しく僕は可愛がっていてちょくちょくメールで連絡したりしていました。そしたらだんだん学校に行かなくなって来たり、いろいろやばい感じだったのでメールで軽く相談に乗ったり励ましたりしていて、その流れで今日の勉強会という運びになりました。


僕も今は資格試験の勉強など少しかじっていてがんばらなくては行けない時期なので、彼のことを面倒見がてら自分も勉強しよ〜という気分でいたのだけれど、いざ勉強をはじめてみるとさすが高三受験生の今の時期だけあってすごい集中力で一心不乱に勉強されてらっしゃる。僕は最近割と集中力や持続力に欠けているので、彼のような人が目の前にいてくれると釣られて自分も集中でき大変たすかった。世話を焼くつもりが逆に世話をしてもらった格好で大変ありがたかった。


このような事態、つまり当初想定していた役割分担がいつのまにか入れ替わってしまっているというようなことは、結構多いような気がする。大切な人を守っているつもりが、守るという行為によって実は自分自身も守れられていた、みたいな。そのようなやり取りが互いに認識できたとき、双方向のコミュニケーションが少し深いレベルで達成されているのだと思う。一方通行でない関係もたまには悪くはないものだね。