合唱の魅力を人に語る、ということについて


友人のホームページ日記に、「合唱の魅力を人に伝えるのは難しい」ということが書いてあった。確かにそうだと思う反面、趣味なんてみんなそんなものなんじゃないだろうか・・・とうい気もする。彼が言いたかったニュアンスはおそらく、「合唱はカッコイイ趣味として人に認められにくい」みたいなことなんじゃないだろうか・・・・(憶測です。違ったごめんなさい。)


僕自身は合唱は最高にイケてるカッコイイ趣味だと思うし、どのへんがカッコイイかというと、まずマイクやスピーカーなどの拡声器を使わず本物の生の声で勝負しているという点、つまり人間が生まれながらにして持っているマテリアルに深いリスペクトを抱き、これを最大限に生かそうというスタンスがたまらなくカッコイイ。


また、一パートを原則的には復数人で演奏することもカッコイイ。合唱を演奏する個人に対し「自分一人ではなにもできない」みたいに揶揄する表現がまれにあるが、果たして一人きりで何から何までこなせてしまう人間などいるだろうか?「個性の連携」や異なるマテリアル同士が起こす「化学反応」という、集合としての人間が本質的に内包するもう一つのマテリアルにも深いリスペクトを抱き、さらにそれを自分たちの力で制御していくことが合唱の演奏なのである。


その上で、パート間の連携が生まれる。ある意味ロックバンドやジャズバンドの連携のようであり、反面1パート内でも「人間の声」という同種のマテリアル同士で音を分かちあうという特殊性・高度性も併せ持っている。(音を分かち合うそれぞれの音のタイプが近ければ近いほど、より高度な連携が要求される場合がある、という意味。)


「音楽」を演奏するための「装置」として考えた場合、そもそも1音・1パートの中ですでに化学融合している合唱の演奏は、1音1人のロックバンドなどの演奏と比し、その連携は記号的なニュアンスにおいてはある意味より高度になると想定できるのではないか。反面、個人単位の個性を全面に出すような音楽ではロックバンドには敵わない場合があるだろう。


つまり、人間の「個人」「パーソナリティ」に焦点をあてるか、「マテリアルへのリスペクト」に焦点をあてるか、という違いがあるものの、そのどちらがカッコイイか?などと問うこと自体無意味であるように私には思われる。私はロックも好きだし、ジャズも好きだし、合唱も好きだ。ただ個人的な信念としては、「パーソナリティ」よりも「マテリアル」や「化学融合」を優先する立場を優先し貫いていきたい。それが私のライフスタイルであり、だから私は合唱演奏者なのである。


このように合唱は大変カッコイイ趣味だと私は考えているが、その魅力を人に伝えるためにはやはり演奏をお聞きいただくしかないと思う。