演奏者である、ということについて


前にも書いたことがあるような気がするが、過去の記事をみても見つからなかったので書いてみる。もし過去に重複の記事があった場合はご指摘いただけると幸いです。


音楽と自分との係わりを考えてみると、僕は自分を「演奏者」だと考えいている。基本的には歌、合唱の演奏者だ。


演奏者とはなんだろうか?それは音楽的な目的(音楽効果とか演奏効果)を、演奏という手段で達成しようとする人のことだと思う。音楽的な目的の達成の手段は、他にも作曲、編曲、楽器の製作・打ち込み、指揮などの方法が考えられ、間接的には人に影響力を与えること(音楽家に出資する、など)が考えられる。


漠然と考えると、音楽はこれらの諸要素がすべて相互に関与して成り立っているし、自分で作曲した曲を演奏することで「アーティスト」とされるという考え方もある。


僕も昔は、自分のやりたい音楽をやるためには自分で作曲・編曲がでたほうが俄然よいと考えていた。そのほうがより、自分の感性に近いものを表現できるというか、自分自身の音楽ができるというか。


しかし今は、「演奏」が音楽を作る上での一番包括的な手段だと考えている。つまり、良い曲でも演奏が悪いと良い音楽にはならないし、今一歩と思われる曲も演奏次第で素晴らしい音楽になる場合がある。


僕がこの考えを強く抱くようになったのは、大学時代の指揮者の先生(神)が練習中「この曲は、演奏者のほうでそうとうカバーしないと良い音楽にならない」とつぶやいたときだ。


その時練習していた曲は難解で、不勉強な我々は「失敗作」「駄作」などと何となく思っていたし、事実練習でもなかなかうまくいかず「何でこんな曲を・・・」と思っているメンバーも多かったように思う。


しかし指揮者の先生(神)のこの発言を聞いたとき、「作曲の問題点は演奏でカバーする」という概念が根付いた。演奏がうまく行かないとき、それを曲のせいにするのではなく、演奏者のやりかたの問題と解釈する視点だ。


客観的に考えれば、作曲者と演奏者の双方に問題はあるのだろう。しかし我々は当事者であり第三者ではないのだ。音楽における二大要素をとりあえず「作曲」と「演奏」であるとすれば、どちらが偉い偉くないの問題ではない。しかし自分が「演奏者」である以上、「演奏者」的なアプローチで音楽効果を高めることを考えるのが「演奏者である」ということだと思う。


そして最高の演奏者とは、どんな曲でも名曲として演奏してしまうことができる人をいうのであろう。そこに必要なのは卓越した技術はもちろんのこと、どんな難曲でもその音楽の真意や求めている音楽効果を汲み取る感性や想像力なのだと思う。


そういった意味で良い「演奏者」を目指すためには、いろいろな曲に触れる必要があると思う。合唱界というのは人口が少ないこともあり似たような曲や同じ曲ばかり演奏されることがあるが、それは感性領域の矮小化につながる危険性がある。平易な曲・とっつきやすい曲・難解な曲・複雑な曲・ヘンな曲、まんべんなく接することで感性が広がり、やがてどんな曲でも名曲として歌いこなせるようになるのではないか。