音響の豊かさについて


僕がかつて高校生だったころは、合唱の演奏をライブで聞きに行くとそれなりに音響の豊かな演奏が多かったように思う。初めて合唱の演奏を聞いたときなど、「マイクとスピーカーなしで、こんなに大きな音が出せるものなのか」と驚いたものだ。


そのもっとも顕著な例が「平松混声合唱団」さん(平松混声合唱団オフィシャルサイトにようこそ)だった。演奏において技巧や正確さ、そして音楽表現が重要(というか目的?)なのはもちろんだが、それ以前の絶対的な前提として音量(音響の豊かさ)がある、というあたりまえの事実を平松混声合唱団さんの演奏に教えてもらったと僕は思っている。


豊かな音響というのは、もちろんただ単純に音量が大きい音という意味ではなくて、声楽的・合唱的に洗練された美しい共鳴を持った響き、という意味である。美しい音質と豊かな音量がそろった音とでもいおうか。


豊かな音響は、ただそれだけで人を感動させる。音楽や歌が始まる瞬間の、まだどんな音楽が始まるのかもわからない時点で、歌い始めの瞬間の声の美しさに心を打たれる経験は誰しもおありだと思う。音楽以前の音の美しさがまずあって、その音が音楽を奏でることでより高い純度で音楽が伝わる。


ところが近年、いろんな団の演奏を聞きにいってもこの「豊かな音響」に出会う機会がめっきり減ってしまったように思う。そういう演奏に出会うと、僕はしばしば「この合唱団は音響の面ではまだ余地があるな」などと考えていた。しかしあまりにもそいういうことが多くなってしまったので最近では「年齢に伴い自分の耳が悪くなったのか」とか、「良い演奏を聞く経験が豊富になり、ちょっとやそっとの音響では珍しくなくなってしまったのか」などと考えるようになっていた。


しかし菊華アンサンブルさんは違った。美しい歌を歌うためにもっとも大事な土台となる、「美しい声、美しい音響を作る」ということに他のどの団よりも誠実に取り組んでいると感じた。そのくらい、音響が豊かで美しく、それでいて発声志向の合唱団に見受けられるような声のバラけ感がまったくない。


音量を確保すること、美しい音響をたもつこと、そしてその状態で他のメンバーと声を合わせることはある部分で矛盾する場合がある。この矛盾を乗り越えて、3つのパートがそれぞれまったく1つの音にまとまっているということ、そしてその3つのパートの声の響きや音程の取り方もほぼ完全にかみ合っていること、これは並大抵のことではない。演奏が始まった瞬間の音でこれらのことがすべて伝わってくると同時に、その音響の美しさに鳥肌が立った。


(長くなってきたので明日へつづく)