いつ問題と認識するかが問題、ということについて


診断士試験のあと、一年間一緒に学校に通ったSTHYと新宿で飲んだ。学生時代はよく彼とビールを飲んだものだが、今はお互い社会人でありかつ受験生ということもあり、この一年間毎週のように会っているにもかかわらず一度も飲んでいなかった。
彼は学生時代「サムソンティーチャー」と呼ばれ親しまれるキャラだったが、彼自身はそのあだ名がいやだったようでよく「サムソン」と呼ばれては半切れしていた。僕は彼のあだ名がうらやましかったのだが・・・(そのころの僕のあだ名は「幻視者」だった。)


予断はさておき、僕は一次試験に当然のように落第した(自己採点)ものの、緊張感のある一年間の一区切りということで、試験後彼と久しぶりに飲んだ。お互い社会人生活を重ね、学生時代とは一味違ったムードになるかと思いきや、やはり現実にはお互い進歩もなく、むしろ野心や根拠のない自信に満ち満ちていた学生時代に比して退行しているのかもしれない。


そんな中でも特にシュールな光景があった。いくつかのくだらない話題を経て、お互いいい加減彼女を作らないと社会的にも人生的にも人間的にもまずいだろう、という話題になったとき、「それについては、いつ問題と認識するかが問題だ」とSTHYが言いだしたのだ。


我々は確かに高度な知性と知的好奇心と行動力を持ち合わせているのかもしれないが、人間としての基本というか土台の部分で根本的に問題を含んでいることが推測された。特に彼のように優秀で能力的にも精神的にも秀でた人間が、このような負け犬(というかもはや負け犬なんだかどうかもよくわからない)的発言をポロリとこぼすところにシュールさを感じる。いや、それはペーソスなのかもしれない。「サムソンティーチャー」のあだなの由来は、彼の「寒い発言(ギャグや負け犬発言)」に由来していることが思い出された。


どんなに優秀でも、完璧な人間はいない、ということなのだろう。