男声合唱の合同練習について


先日からこのブログでも触れている男声合唱の合同練習がいよいよ始まった。僕はそのメンバー構成について良く知らなかったのだが、いざ参加してみたら思ったより年配の方が多かったのが意外だった。


とはいえ僕も大学生時代は大学合唱団のOBと合同演奏をしたこともあるし、またそういうときに登場するOBの方はたいてい60歳以上、ヘタしたら70近いおじいちゃんまでいらしたりするもので、年配の方との男声合唱にはそれなりに経験はあるつもりだ。


またそれ意外にも2,3度、年配の方と練習・本番をご一緒させていただいたことがあったように思う。伊達に十余年合唱を続けているわけではない。男声合唱は学生と年配の方が多く、僕ら世代の中間層がうすい。まあ仕事や家庭が忙しく、合唱をやっているヒマがない人間が多いからなのだろうが。


年配の方とご一緒する際に問題になるのはやはり音程だと思う。単刀直入に行って、年配の方は音程がブレたりビブラートする場合が非常に多い。これは偏に年齢とともに訪れる筋力の衰え、それによる支えの不安定化によるものであろう。


もし若い頃からずっと続けて正しい方法でブレス・発声を続けていたら、恐らくそれほど歌唱に使う筋力が減耗することはないと思われるが、やはり現役時代忙しく合唱をする時間がなかった人たちがある程度年を取り、落ちついたところでまた趣味に復帰するというパターンの場合、このような筋力の維持を望むことは難しい。


僕個人は基本的に合唱におけるビブラートや音程のブレは嫌いで、正確で清潔な音程を好むほうだが、しかし必ずしも音程のブレ=悪であると決め付けているわけでもない。


というのも、例えば多田武彦の「富士山」のような曲を演奏してみた場合、年配の方のブレた音程で突き進んでしまったほうが逆に奥深さやオドロオドロした雰囲気、少し怖いような荘厳さなどが伝わってくる場合があるからだ。


高校生の演奏する「富士山」と、年配の方の演奏される「富士山」とでは、山の年季も気候も風景もすべて違ってくるわけで、一つの曲がまったく別の顔を持つ。しかし演奏が成功している場合、どちらにもそれぞれの味があることがわかり優劣をつけることが無意味であることに気付く。叙景詩である富士山は、歌い手の心情が逆に反映されるのだ。


つまり多田武彦高田三郎の作品など、年配の方の声が合う曲を選ぶというのがひとつの指針になりうるだろう。また年配の方と演奏する場合には決まってそのような曲が選定されいたように思う。


ところが今回は松下耕先生の作品である。抒情詩である。このような作品を年配の方とごいっしょさせていただくのは僕にとってははじめての経験で、戸惑いと緊張と期待が入り混じっている。


僕自身はバリトン上声パートを歌っているのだが、やはりベースの音程に幅がありすぎてどこに会わせていいのか戸惑う場合が多い。とくに松下先生独特のオシャレな展開・和声進行がなされる部分など、自分を見失いそうになることもしばしばであった。


しかしやはり練習を進めていくうちに少しずつ声はまとまっていくもので、相変わらず集合的ビブラートによる若干のオドロしさはあるものの音程のブレ(ビブラートしている中心の音程がメンバーごとにずれている状態)は少しずつ修正されていく。


そして約3時間の練習の終わり近くには、何となく和音ぽいところまで近づいてきたような気がする。これには、やはり各パートに中心的役割を果たすべく若手の声の良いメンバーが配置されていることももちろんあるだろうが、今回参加されているご年配の方々が意外な(うれしいことだが!)センスの良さというか、流れに乗る上手さをお持ちだったということのなのだろう。


まだ1回目の練習とは言え、あと2回で本番なのだ。危機感を抱きつつも、今後の展開が楽しみでならないし、うまく流れ出すと練習が加速していく可能性がありそうなので僕自身振り落とされないようにしっかり心を構えて臨みたい。